先日、母校の後輩である大学四年生たちに会った。
まもなく卒業を迎え、春からは新社会人になる彼らは、社会に出ることへの期待と不安をいり交ぜて、今を過ごしているようだった。
そんな彼らと小一時間話をした。そして彼らとの別れ際、月並みな言葉で「これからの仕事、がんばってね」と言おうとした。だが、いや待てよ、掛けるべき言葉はそれじゃないかも、と思い立ち、言うのをやめた――。

その理由は、当人が選んだ環境で当人ががんばるのはいわば当たり前のことだからだ。それよりも、これから次の変化があるときに、当人が「がんばれる場所」を選べるかどうかが社会人生活を左右するだろう。
人には得手不得手がある。算数が得意な人もいれば英語が得意な人もいる。体力仕事が得意な人もいれば文章を書くのが得意な人もいる。言い換えれば、とある分野でがんばれる人がいたとして、その人が他のジャンルでも同様にがんばれるとは限らない。
ということは、まずどの分野をその人が選ぶかが極めて重要になってくる。自分ががんばれる場所をしっかりと見つけることだ。

ではその場所をどのように見つければ良いのか。それはさまざまな情報に触れ、多くの人と接することだ。仕事選びであれば、平凡なようだが世の中にどんな仕事があるのかを自分の目と耳で確かめることだ。そしてそれはネットサーフィンではなく、実際に周囲の人から直接聞き、自分の目で見ることで確かなものになる。
なお、これは決して仕事選びだけの話ではない。どこかの会社を勤め上げ、定年を迎えたシニアにだって言える話だ。定年後、次の人生でどんなアクションをすべきか考えたとき、何も情報がなければ自分が「がんばれる場所」を見つけようがない。しかしそれまでにアンテナを高くし、広く情報を集めていれば、自分にとってどんな場所ががんばれる場所なのか、おのずと道は見えているだろう。

ところで、後期近代ともいうべきこれからの世の中は、生き方もどんどん多様になっている。親世代の考えている当たり前の生き方が、まったく当たり前じゃなくなることもあるだろう。もしこれから、情報収集を怠り、人と会うのを避け、今までの常識にすがったまま生きていけば、ある日突然外的要因により変化を強要されたとき、自分が「がんばれる場所」をみつけられず、困ることになる。

私が会った大学四年生たちの話に戻ろう。
これまでの彼らは、いわば選択肢を親や教師や周囲の人が与えてくれた人生だったはずだ。小学生の頃、習い事を選ぶにも、親が見つけてきたいくつかの選択肢の中から何かを選んだことだろう。中学生の頃、部活を選ぶにも、学校に存在していたいくつかの選択肢の中から何かを選んだことだろう。そこで選んだものに、たまたまハマり、がんばることができた人は幸運だったかもしれない。
しかしこれから先は、そんなふうな「がんばれる場所」は、自分で見つけてこなければならない。

一度就職先を見つけたからそれで逃げ切れる、なんてことは絶対にない。就職先が倒産することがなくたって、主力事業が変化したり資本が変化したり自分がクビになったりいろいろ起こる。(実際に、その大学四年生たちのうち、とある一人が就職する先は、かつて私がM&Aに関わった会社だったぞ。)
就職先だけじゃない。人生のいろいろなタイミングで変化は起こる。そのとき、変化を言い訳にして、がんばれないことを正当化するのはダサい。ダサくなりたくなければ、自ら先回りしてがんばれる先を見つけられるよう、人と会い、人と話すことが大切だ。

こんなこと書いていたら、当の大学四年生のひとりからメールが来た。「働くことに悩んでいる」らしい。けれどやっぱりここでも、私は「仕事がんばれ」とは返さない。がんばるのは当たり前だから。けれど、これからどんどん変化があるそれぞれの人生において、そのとき「がんばれる場所」を自分で悔いなく選んでくれることを、応援したい。

自戒を込めつつ、後輩たちに、エールを贈る。