アンドロイド・オペラ『Scary Beauty』を見てきた。日本初演。
いわゆるロボット(アンドロイド)が人間のオーケストラ相手に指揮をし、歌を唄うというコンサートである。
こんなの誰が見にくるのかなと思ったらたくさん人がいてびっくり。知り合いにも遭遇。というか知り合いが関わってた。芸術系の人にも会ったが、テック系の人もちらほらという感じだった。

ロボット(アンドロイド)は大阪大学の石黒浩先生と、東京大学の池上高志先生によるもので、音楽は渋谷慶一郎氏による。
石黒先生と池上先生によるアンドロイドは、昨年の文化庁メディア芸術祭の際に拝見し、特に顔の能面ぽさと、逆説的にその顔のリアルさに背筋が凍ったのだが、今回はその改良版であるオルタ2というアンドロイドが登場していた。
アンドロイドがこういったショーを演じるというと、前述の石黒先生と、青年団の平田オリザ氏がタッグを組んだアンドロイド演劇も記憶にあるところだが、アンドロイド演劇なんてたしか初回のあいちトリエンナーレの頃に上演してたから、もうすぐ発表から10年が経つ。あれからアンドロイドは進化をしている。


上演がはじまってしばらく、私は、ずっと指揮者たるアンドロイドを凝視していた。人間が指揮をするオケを聞く場合、指揮者をガン見することはそうそうないのだが、今回はアンドロイドが主役でしょという前提で、アンドロイドに注目していたのだ。
しかしアンドロイドを見ていてもどうにもおもしろくない。
途中で気づいたのだが、というか当たり前の話なのだが、音を奏でているのはオーケストラのほうであって、アンドロイドではない。指揮者を見て楽しむなんていうのは超コアな見方である。
むしろアンドロイドに視線が向いてしまうのは、音を楽しもうという意識ではなく、テクノロジーを楽しんでやろうという気持ちが強いからだと気づいた。芸術としての音楽ではなく、アンドロイドというテクノロジーの進化した形を見に来た自分の意識に気づく。


果たして、そうすると私は芸術的価値を見出すためではなく、テクノロジーの価値を探しにここにきていることになる。それはひとつの体験の仕方なんだろうけどそれでいいんだっけ、と自問自答を始める自分。

そんなふうに考えていたら、突如、アンドロイドが歌い始めたのである。ボーカロイドだ。
指揮だけをしていたときと違って、歌いはじめたアンドロイドからは、その表情を見るととても人間らしさが感じられた。テック的な話をすれば、指揮ももちろん「人間らしく」見せる仕掛けがあったのだが、私は歌っているときになってはじめて「人間らしさ」をアンドロイドに見た。うまく説明できないが、直接ロボットが自発的行動として「歌った」ように見えたからだと思う。
指揮だけをしていたアンドロイドの場合は、その指揮に従っているオーケストラの人たちにとっては「人間らしく」見えているのかもしれないが、観客の私からはそうは見えなかった。


ところで、オーケストラといえば先に楽譜があって、それを大勢で演奏するものだ。よくあるオーケストラでは、過去から伝わる名曲と呼ばれるものがあって、それをみんなで演奏する。Youtubeで検索すればすぐにヒットするような、いわば観客も既に知っている音楽を、敢えて劇場で演奏し、観客はそれを聞くのだ。
なぜ「既に知っているもの」を、わざわざオーケストラファンは聞きに行くのか。これはどこかで聞いた話だが、オーケストラファンは、舞台のうえでの失敗を聞きに行く、という。完璧な演奏であれば過去の優秀な演奏のCDを買えばいいわけで、でもナマでわざわざ聞くのは失敗やアクシデントも込みで楽しみたいのだ、と。
この考え方はなるほどな、と思う。他ジャンルでいえば、クラシックバレエを私はよく見るが、私もクラシックバレエで同じ作品を幾度となく見ている。多少振り付けは違ったりするが、基本は同じ内容なのに、何度も見るのだ。この曲のここで、バレリーナがぐるぐる回転するからそこをちゃんと見よう、とか。ここでダンサー失敗しないよう、ハラハラドキドキしながらも見守ろう、という気持ちになったりする。だからうまくできたときに、拍手をするのだ。


さて、アンドロイドオペラである。
今回のアンドロイドオペラは、おおむね成功だったようだが、果たしてアンドロイドは、人間が上演するときのように「失敗」をすることはあるのだろうか。
今回見たアンドロイドの指揮は、完全にプログラミングされたものではなく、オーケストラの調子に合わせて(同期して)、動作の揺れが発生するようになっていたと聞く。つまり予測不可能な動きをしていたのだ。予測不可能というのは、じつに人間ぽい。
しかし例えばその揺れの幅が大きすぎた場合、もしかして人間らしさを感じる前に、「機材トラブルかな」と感じる可能性があるかもしれないと思った。つまり、多少のエラーは人間らしさとなり、大きなエラーは機械のせいである、と。
これはおそらく、結局はこの「揺れ」のコントロールが、人間がおこなったプログラミングという掌の上で転がされているに過ぎないという私の感覚の現れであろう。本当にアンドロイドを生身の人間のように感じていたらこんな感想は抱かなかったはずだ。

そしてさらに言えば、その揺れの幅が、芸術的な価値を定義するのかどうかはわからなかった。

アンドロイドオペラの創作過程を追っていた関係者からすれば、人間らしさを徐々に体得していったアンドロイドと、それに従う人間オーケストラは、そのハーモニーという文脈で価値を見出せるのかもしれない。しかし、最終発表だけを見せられた私には、アンドロイドオペラの意義をまだ理解していない。