■4年前からの疑問

2014年夏にカンボジアへ出かけたとき、こんな記事を書いた。
[nekodemo]マイクロファイナンスが救う貧困とグローバル資本主義への悩み〜その2

この記事内にも書いていたことが、あれからずっと引っかかっていた。


■マイクロファイナンス機関が買収された
このときは、カンボジア国内でもマイクロファイナンス機関同士の競争が激しくなってきている様子を書いたのだが、最近、私のもとにもその競争の事実を如実に表す出来事が舞い込んできた。
セキュリテを通して私自身も投資をしていた、カンボジアのマイクロファイナンス機関・サミックが、韓国の銀行NH Bankに買収されたのだ。そして、彼らの資金調達の見直しが実施され、私が投資していたお金が早期償還された。
韓国をうろうろしていれば、NH Bankの看板はたまに見かける。マイクロファイナンス機関が大手金融機関に買収されるということは、将来収益を買手が計算できるようになり、それだけ市場が安定してきているということの証左でもある。マイクロファイナンス事業がひとつのビジネスとして安定化しているのだ。

これを、ビジネスサイドではなく、借り手サイドから見るとどうなるか。
おそらく、貸手のことをマイクロファイナンス機関というよりも、ひとつの金融機関としての見るようになっているのではないかと予想する。つまり、社会貢献性よりも収益性を求める金融機関の姿がそこに思い浮かぶ。こんな記事だって出ている。


■カンボジアに投資する社会的意義を見いだせない
もはやカンボジアにマイクロファイナンス投資することの社会的意義が見いだせないとしたら、投資したお金が早期償還されたことは素直に受け入れたほうがよい。カンボジアのマイクロファイナンスが「社会にいいこと」をするための投資フェーズではなくなったと考えるのが妥当だ。
一方でそうすると、しがない投資家としては、もうどこにも社会にいいことするための投資先は見つけられないのか。

そんな疑問を抱きつつ、クラウドクレジットの中の人に質問する機会があった。
クラウドクレジットは、今年マイクロファイナンスファンドをスタートさせた会社である。
「アジアへのマイクロファイナンス投資って、ジャブってないですか?」と聞いたら、中の人はこう答えた。「アジアは確かにその気配はあります。でも南米やアフリカはまだお金が足りません。」と。
ふむ、投資家サイドとしてはアジアはもう旨味が無いんだろうな。


■ひとつの国の中の経済格差
さて、そこで2014年に書いた記事の話に戻る。
このとき、私はこんなことを書いた。

その経済成長の過程において、日本国内でもカンボジア国内でも、それぞれに深刻な経済格差が生み出されることを危惧している。これまで目が向けられていなかった新たな弱者の誕生である。
語弊を恐れず言えば、今までの日本人は、じつに牧歌的に途上国を「救う側」でいたが、今後は救う側と救われる側に分かれるのだろう。

マイクロファイナンス機関が身近なものになり、ひとつのビジネスとして成立するということは、これからカンボジア国内でも上記でいうところの「経済格差」が生み出されるのではないかと思っている。経済の原則に従っていけば、そのマーケットの中で勝者と敗者が生まれるわけだ。
そして、その経済格差というやつは、日本国内でももちろん進行中である。


■グローバル化によって苦しくなっていく人
東大の宇野重規先生の著書「未来をはじめる」を読んだ。
アメリカでトランプ大統領が誕生した話の中で、こんなことが書かれていた。

ところが、そのような人々が、グローバル化によって大きなダメージを受けたわけです。世界なんてピンとこないが、それでも間違いなく自分たちは職を失っていく。「グローバル化はいいことだ」「世界がつながっていくのはいいことだ」といくら言われても、「それによって利益を得るのは、一部のエリートたちだけだ」と言いたくなりますよね。
(中略)
民主主義というのは、一つの国の中で、より多くの人の声を政治に反映する仕組みです。そうだとすると、いまの先進国ではどうでしょう。グローバル化によって、豊かになるのはごく一部で、苦しくなっている人の方が多い。そういう人たちの悲鳴を当然、民主主義は反映することになります。当たり前ですよね。(45-46ページ)

これを読んで、はっとした。
世界では、アメリカのトランプ大統領誕生や、イギリスのBrexitなど、今までの流れからすると逆行するようなことが次々起こっている。だが、果たして私たちはこれらを対岸の火事として傍観していられるのだろうか。
外国の話であるがゆえに、日本人たちは例えばトランプ大統領のやることを小ばかにした言い方で論評する。あるいはマスメディアのコメンテーターがそういう論評をするから、視聴者たちもそういうものなのかと賛同する。
しかし現実的に同じような政治が日本でおこなわれたらどうなるだろう。グローバル化により、かえって苦しくなるような人たちがそれを自覚しはじめるとしたらどうなるだろう。
よその国のことを笑っていられない。(いや、日本では何が起ころうと政治的無関心層が多いことが昨今証明されているので、逆説的に何も起こらないことが救いなのかもしれないと皮肉すら言える。)

そして、カンボジアで抱いた違和感が、この格差問題に対する私の意識に通底していることに自覚的になった。きっと私は、いきすぎたグローバル化がイヤなのだ。頭のどこかで、グローバル化が進んだ末、いずれ自分が苦しい立場に立つことを想像しているのだ。世界がどうなろうと、トランプ的なものを支持する人たちの気持ちがわかった瞬間だった。


未来をはじめる: 「人と一緒にいること」の政治学