シアターコモンズ21のツアーパフォーマンス、高山明/Port B「光のない。ーエピローグ?」を体験した。

この作品は、2012年にフェスティバルトーキョーで上演された作品のリクリエーションである。
当時のフェスティバルトーキョーをプログラム・ディレクターとして手掛けていたのが相馬千秋さんであったわけだが、今回シアターコモンズで再び手掛けたのも相馬さんである。

新橋のディープスポット「ニュー新橋ビル」をスタート地点にして、観客が新橋エリア内の指定された場所に赴き、ラジオの周波数をあわせて流れてくる音声(台詞)に耳を傾ける、という構成である。内容は、福島の原発の話だ。

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さて、9年前にフェスティバルトーキョーで高山明作品「光のない。」を体験したときには、福島の原発の話を敢えて新橋で体験するという、対比と言っていいのかどうかわからないが、その地域性のコントラストがはっきりした作品だったと記憶している。いわば、福島の原発の話が、新橋という安全な場所で展開される不思議さが際立って感じられた。
特に、観客は福島の話をラジオを通して耳から聞いているが、目にする景色は新橋を歩く人たちなわけである。町ゆく彼らは福島とまったく関係がない存在に見え、新橋という安全圏と異世界の福島がこうも違うのかと、見せつけられたわけである。なおさら新橋に東京電力本社があることが、それを強調していた。


さて今回はどうだろう。

このリクリエーションの「光のない。」でめぐった新橋のスポットは、知った場所ばかりだった。よく通る道とか、よく来るビルとか。こんな雑居ビルは誰も入らないだろ、みたいなビルもスポットになっていたのだが、そのビル知ってるし、みたいな感じ。
しまいには、テクテク歩いてたら、知っている立ち飲み屋のおじちゃんが仕込みしているところに出くわしてしまった。

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↑新橋の生涯学習センター(ばるーん)もスポットになっていた。この3m隣に、ついさっきまでいたのに!


新橋という町は、都会の象徴として、いわば記号的にこの物語に設定されているのだろうかと思ったが、かといって私の場合には、ほぼ新橋は日常空間である。どうも日常の道のりを歩いている中に、「光のない。」のパフォーマンスが入り込んできているように見えた。

そうすると強く意識するのは、9年前に感じた「新橋と福島との差異」ではなく、むしろ「新橋と福島の同一性」である。
いや、私の日常が福島的なものと地続きであると感じたと言えるだろうか。

象徴的だったのは、桜田公園である。
桜田公園といえば、訪問者数日本一の公園であり、新橋ではたらく人々が通勤、ランチ、休憩、退勤時に通過しまくる公園である。つまり、人が常に歩き続けている公園。

そんな桜田公園だが、今、コロナのためいつもと違う光景が存在している。
立ち止まって缶ビールをのんでいるおじさんがたくさんいるのだ。最近は緊急事態宣言下の8時以降、桜も咲いてないのにお花見会場みたいになってるからね。
いわば、これまでの日常とはまったく違う風景となっている桜田公園。

そんな桜田公園も「光のない。」のスポットになっていた。
桜田公園でビールを飲んでいるおじさんを背景にして、「光のない。」で用意された福島の写真を見る。
いや、「光のない。」で用意された福島の写真を背景にして、ビールを飲んでいるおじさんを見る、といったほうが良いか。

もはや、コロナで揺れる新橋と、「光のない。ーエピローグ?」の境界があいまいだった。