映画「あのこは貴族」を見た。

前半は、貴族と一般人とのギャップが描かれる。

貴族である華子が松濤に住みながら家事手伝いで不自由なく暮らしている一方、一般人である美紀は、富山の地方生まれで学費を自分で工面しなければならないほどの暮らしぶりである。この対比の感覚、見たことある。

ちなみに台詞の中には出てこないが、美紀の地元の駅として登場したのは富山の魚津駅である。台詞の中だけで登場する「アピタ」なんて、松濤には存在するはずもない典型的な地方商業施設であり、北陸方面の地方都市によく見られる歩道上アーケード形式のシャッター商店街や、同窓会が開かれるホテルの宴会場の安っぽい感じとか、じつに地方感あふれた絵が登場する。

松濤の華子のほうは、現実的にはいくら松濤に住む開業医の娘と言っても、トイレの汚い安居酒屋に驚くようなことは無いんじゃないかと思うのだけれど、デフォルメされた貴族の姿として至極納得できる。

一方で後半は、貴族と一般人との共通項が描かれる。共通項とは、じつは貴族も一般人も、それぞれが見ている景色のことを案外知らないということだったり、その階層ならではの親の生き方をトレースする生き方をしてしまうということだ。

地方で生活すれば、職業は親の職業を継ぎ、同窓会では過去の学校でのヒエラルキーがそのまま維持され代り映えのない日常が繰り返されるのだ。(ところで美紀のお友達が働いていた会社は、富山の偉大なるインテックじゃないかと勝手に想像しながら映画を見ていた。)
貴族のほうも、生まれた頃から政治家になることが定められていたり、結婚して良家におさまることを疑わない価値観がはびこったりするところが、決まり切ったその階層での「当たり前」を表現している。

これらは言わずもがなであるが、階層を問わず「当たり前」が存在すること自体が当たり前である。しかし、階層によって見えている景色が「違う」というそのこと自体に気づけるのは、実は相当な発見である。特に、貴族的世界観を当然だと思っている人が、シモジモの者と同じ視線では無いことに気づける(または同じ視線を獲得する)ことはかなりおおごとだと私は思う。


映画の終盤では、これまで我々一般人からすると悪気はないのに鼻につく生き方をしていた「貴族」が、こちら側である一般人の生き方におりてきて、自分を解放するようになったのではと思わせる。自転車の二人乗り(にけつ)が一般人の行為だとすれば、それと同じ構図で、主人公・華子が三輪車の二人乗りをしているように見せたのはその象徴だろう。

一般人も、貴族も、キャリアや生活の意味で「自立」することで、はじめて自由に自分の生き方を獲得できる、という構図である。
庶民感覚からすると、これでハッピーエンドだね、というわけだ。


しかし私には妙に引っかかることがある。

貴族の華子は、一般人が見る景色を垣間見た。
美紀が済むワンルームっぽいマンションの一室から見える、全貌が見えるわけではない東京タワーの眺望は、その一例だ。まぁ東京タワーが見える時点で、エリア的には良いところに住んでる感はするのだが、松濤の一軒家から見る景色と比較すれば雲泥の差だろう。

しかし、こうやって見えた景色を、貴族である華子は心底理解できるのだろうか。もっと言えば、なぜその景色を見ざるを得ないのかという、その背景を理解できるのだろうか。


私の友人で、華子一家をスクリーンから飛び出させてきたような貴族がいる。
世帯主は開業医で、親戚一同それぞれが何かしらの会社を経営しているみたいなすごい家。まじで親族間で高級ホテルで会食してる。娘は三人姉妹なので、もしかして華子のモデルなのではと思っちゃうぐらいである。

日本人のほとんどが知っている良い住所に一軒家を持っていて、しかしそのおうちも築年数が経っているのでシステムキッチンにはなっていないところなどが、妙に華子のおうちとそっくりである。

そんな貴族の、三人娘のうちのひとりと ある日 話をしていたとき、大いなる断絶を覚えたことがある。

その娘が、映画「パラサイト」を見たそうで、その感想を話していたのだ。
パラサイトを見て、まず「家政婦さんを調べもせずにいきなり変えるなんてあり得ない」と言っていた。
つまり、パラサイトにおける「金持ち」側の視点に立ったようすである。実際にその貴族一家では家政婦さんを雇ってるそうだし、そこに着眼するのは、わかる。

そしてさらなる感想として、犯罪を犯すソン・ガンホ一家に対して「え? あんなことしないで普通に働けばよくない?」と言ってのけたのだ。この感想には頭を抱えた。どんなに優秀であっても、構造的にろくにお金が稼げない社会になってるんだよ、と謎に解説せざるをえなくなった。
しかしその娘は抵抗する。「優秀だったらお金稼げるでしょ。お金稼げないのはその人が勉強しなかったせい。」自己責任論でたー。

そこでこの解説の中で、私は、教育の事例を挙げた。
「努力が結果に結びつくのはひとつの事実だけれど、子どもの意思に関わらず、親がお金を持っているかどうかで塾に行けるかどうかが決まるじゃない? で、塾に行ったら偏差値あがって良い学校に入れて、結果的に社会に出たあとの稼ぎも変わるでしょ? ほら、東大生の親の所得は平均より高いって言うじゃない。」
ここで私は、外部要因である「親が金持ちかどうか」が社会的成功に影響し、本人の努力という要因だけじゃないんだよと説明したつもりであった。

しかしその娘は続けるのである。
「でも、お姉ちゃんは塾に一度も行ってないけど、東大生だよ?」と。

……。
それはね、塾だけじゃなくて、集中して勉強できる環境それ自体が、他の家庭より恵まれているのだよと説明したのだが、理解してもらえただろうか。

映画「あのこは貴族」の話に戻れば、華子は果たして一般人が見る景色が、なぜその景色になっているのか、その理由を想像できているのだろうかと不安になった。

私の友人貴族の娘は、私によるパラサイトの解説を聞いて「ふーん。もう一回考えてみる!」と言っていた。
そうやって思考を巡らすことができるのも、貴族特有の余裕が為せる業か、それとも教育の成果なのだろうか。