nekodemo.com

アートマネジメント、舞台照明、表現教育、地域コミュニティ文化、webマーケティング、金融をたしなみたい。趣味だじゃれ。

art

映画「あのこは貴族」を見た。

前半は、貴族と一般人とのギャップが描かれる。

貴族である華子が松濤に住みながら家事手伝いで不自由なく暮らしている一方、一般人である美紀は、富山の地方生まれで学費を自分で工面しなければならないほどの暮らしぶりである。この対比の感覚、見たことある。

ちなみに台詞の中には出てこないが、美紀の地元の駅として登場したのは富山の魚津駅である。台詞の中だけで登場する「アピタ」なんて、松濤には存在するはずもない典型的な地方商業施設であり、北陸方面の地方都市によく見られる歩道上アーケード形式のシャッター商店街や、同窓会が開かれるホテルの宴会場の安っぽい感じとか、じつに地方感あふれた絵が登場する。

松濤の華子のほうは、現実的にはいくら松濤に住む開業医の娘と言っても、トイレの汚い安居酒屋に驚くようなことは無いんじゃないかと思うのだけれど、デフォルメされた貴族の姿として至極納得できる。

続きを読む

文化系人たちが悶絶していると聞いて、映画「花束みたいな恋をした」を見た。

文学、音楽、漫画などのサブカル固有名詞がたくさん出てくるところが、ひとつのキャッチ―さとなって文化系の人たちがざわついているのだけれど、文化系じゃない人が見ると、サブカルの細かな話ではなく、男女がどんどんすれ違っていくという大雑把なストーリーで語られるんだろうな。

劇中では、映画「ショーシャンクの空に」やアーティストのONE OK ROCKという言葉も出てくるわけだが、サブカルな話題に寄ってそうで全然寄ってない、いわばサブカル系との断絶を意味するこれらの作品名やアーティスト名の選択を「ぷぷぷ」と笑えるかどうかが試金石となりそうである。続きを読む

シアターコモンズ21のツアーパフォーマンス、高山明/Port B「光のない。ーエピローグ?」を体験した。

この作品は、2012年にフェスティバルトーキョーで上演された作品のリクリエーションである。
当時のフェスティバルトーキョーをプログラム・ディレクターとして手掛けていたのが相馬千秋さんであったわけだが、今回シアターコモンズで再び手掛けたのも相馬さんである。

新橋のディープスポット「ニュー新橋ビル」をスタート地点にして、観客が新橋エリア内の指定された場所に赴き、ラジオの周波数をあわせて流れてくる音声(台詞)に耳を傾ける、という構成である。内容は、福島の原発の話だ。

IMG_2184続きを読む

山中カメラという名前のアーティストがいる。
その山中カメラ氏の作品をおさめた書籍というかCDが先日発売された。

山中カメラ氏は、盆踊り(BON-DANCE)をいろいろな地域で作っているサイトスペシフィックなアーティストのひとりだが、その各地の盆踊りをCD化して発売したというわけだ。

このCDには11曲が収録されているのだが、その中でもやはりどうしても何度も聞いてしまうのは別府最適音頭だろう。

別府最適音頭は、大分は別府で開かれた芸術祭「混浴温泉世界」(2009年)で披露された作品である。

じつは私も初披露のそのとき、別府にいた。
別府タワーで開催された別府最適音頭のお披露目は、本当に本当に異常な盛り上がりだった。盆踊りだし、その場にいた人たちみんなで踊りだすの。しかも何度も。

あの場にいた人の多くは、きっと私と同じようにあの瞬間を忘れていないのではないだろうか。
そこにいたのは200人くらいだったそうだが、たまたま自分がそういう場にいられたのは奇跡だなと思う。

続きを読む

あいちトリエンナーレは、地元の開催ということもあり第1回目から観客として参加しているが、地元ではアート好き以外には知られていない催しだった。
それが、表現の不自由展・その後が物議をかもしたおかげで、一気に知名度を獲得したわけである。
(とはいっても、ニュース報道を見ない人はまったく興味がないのであろう。地元愛知でも知らない人はほんとにあいちトリエンナーレの存在を知らない。)

そんな中、文化庁があいちトリエンナーレ2019へ、補助金を不交付すると言う発表があった。
なんというか、このニュースを聞いたときには、心底 血の気が引いた。

「表現の不自由展・その後」が、さまざまな抗議によって中止に追い込まれた際には、正直、残念だけれどもまぁそんなこともあるかなと思った程度だった。作品を見ていないから論評できなかったという点もあるが、何より安全確保のために動員できる予算に限りがあるのだろうと考えると、表現の自由を守るためと言ってもふんだんに警備費を割くことは現実的ではないだろうと思えたのである。

しかし、文化庁の補助金不交付となると次元が違う。
不交付の理由はなんだかぐだぐだ語られているが、これが市井の人々に「国による検閲」であると捉えられるだろうことは間違いないわけで、果たしてそれが文化行政のやるべきことなのだろうか。特定の表現を国家が認めない(と国民が認識する)って、何時代の話だよ! しかも文化庁のこの方針に異を唱えない(多くは無関心)人が大勢いることに頭が痛くなる。ますます日本オワタ \(^o^)/が進行する。続きを読む

↑このページのトップヘ