お前はそんなことも知らなかったのか、とお叱りも受けるだろう。
そんなのアダルトチルドレンじゃねーよ、とお叱りを受けるかもしれない。
お前ごときが救おうとするなんておこがましい、とお叱りも受けるだろう。
ましてや、救おうとして救えなかったんだから、尚更たちが悪い。
自分でもどうかと思ってるし、結局何もできなかったというか、もしかしたら状況を悪化させている可能性も否定できず、苦しい。
懺悔する。
はじまりは2年ほど前のことだったろうか。
「この子はもしかしてアダルトチルドレンなんじゃないか?」と感じることがあった。
正確には、その頃の自分には、それをアダルトチルドレンという言葉で定義づけるほどの知識は持ち得ていなかった。しかし、今になって説明的な言葉に当てはめればそういうことだろう。
言い換えよう。
そのとき私が抱いた感情としては、「家庭環境の何かがこの子に影響を与えているのではないだろうか」という直感だった。
だがそんなことを感じても、サザエさんのような家庭が幻想だと知っている私は、ことさら驚きもしなかった。
でも今年に入ってから、久々にその子に会ってみると、その子がいわゆるダメ男にいいように振り回されていることを知った。
ダメ男は私の周囲にも腐るほどいる。だから、普段だったらその話も、あまり気にせずスルーしたかもしれない。
けれどかつてその子の家庭環境に引っかかりを感じていたことを思い出した私は、そこから逃げることはできなかった。
そんなのアダルトチルドレンじゃねーよ、とお叱りを受けるかもしれない。
お前ごときが救おうとするなんておこがましい、とお叱りも受けるだろう。
ましてや、救おうとして救えなかったんだから、尚更たちが悪い。
自分でもどうかと思ってるし、結局何もできなかったというか、もしかしたら状況を悪化させている可能性も否定できず、苦しい。
懺悔する。
はじまりは2年ほど前のことだったろうか。
「この子はもしかしてアダルトチルドレンなんじゃないか?」と感じることがあった。
正確には、その頃の自分には、それをアダルトチルドレンという言葉で定義づけるほどの知識は持ち得ていなかった。しかし、今になって説明的な言葉に当てはめればそういうことだろう。
言い換えよう。
そのとき私が抱いた感情としては、「家庭環境の何かがこの子に影響を与えているのではないだろうか」という直感だった。
だがそんなことを感じても、サザエさんのような家庭が幻想だと知っている私は、ことさら驚きもしなかった。
でも今年に入ってから、久々にその子に会ってみると、その子がいわゆるダメ男にいいように振り回されていることを知った。
ダメ男は私の周囲にも腐るほどいる。だから、普段だったらその話も、あまり気にせずスルーしたかもしれない。
けれどかつてその子の家庭環境に引っかかりを感じていたことを思い出した私は、そこから逃げることはできなかった。
私は調べはじめた。
最初は、親が子供に及ぼす影響から調べ始めた。例えばDV家庭で育った子供は、成長して結婚適齢期になったとき、あれほど嫌いだったはずの父親と同じような男性を配偶者に選んでしまうことがある、と分かった。
最初はライトなところから、書店で偶然見つけた「娘の結婚運は父親で決まる」(岩月謙司)を読むところから始まった。この著者はいろいろアレだけど、導入としては充分だった。
その後、母校へ足を運んだ。
大学卒業以来、8年を経て初めて恩師の研究室を訪ねた。
なんでダメ親から育って、またダメ男を選ぶんですかねぇ?、なんていう話を恩師に軽く聞いてみた。
そこで紹介してもらったのが「愛しすぎる女たち」(ロビンノーウッド)だった。
恋愛依存症やアルコール依存症の人物の傍らに、依存症の彼らを手助けする「共依存」の輪郭が、次第にはっきりしてきた。ダメ男をどうしても甘やかしてしまう女性の像が、頭に浮かんでくる。
その子に思い切って聞いてみると、その子の家庭がうまく機能していなかったことは、断片的ながら充分うかがい知れた。機能不全家庭だと言っていいだろう。
まったく誰が見ても機能不全家庭という不幸家庭ではないが、上記をはじめとして、その子の家庭にも薄々感じるいくつかの現象を、感じ取った。家庭の仲の隠蔽された不仲や歪んだコミュニケーション、そしてそこからくる不幸への異常な耐性である。
アダルトチルドレンや共依存の人たちがどんな行動をするのか、様々な書籍を読んでみて調べてみて、そして実際に自分自身がアダルトチルドレンや共依存症だと「自分で自覚している」人に話を聞いてみた。
すると、きっとこのままでは、この子は過去にもこれからも、様々な不幸を呼び込んでしまうのではないかと考えられてきた。
誰かを本気で信じることができないまま、自分が奉仕することを自分の喜びだと誤置換してしまうという不幸。自分が心から誰かを信じることができず、一定の距離間のままでしか誰かと向き合えないという不幸。
このままずっと、この子がそんな不幸な人生を歩んでしまうのか。
今はまだ独身で、社会的なコミュニケーションで表面的に困ることはない。しかしこれから誰かと結婚し、自分自身が家庭を築く番がやってきたとしたら──。
例えば「出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで/鈴木大介」には、どう見ても経済的に最悪な状況の中で生きるシングルマザーたちの奇異な状況が書かれている。
私にはこの状況は、母親から子供への過度な依存症にしか見えない。
無防備な子どもを、ただひたすら愛することで、それ自体が自分を満足させることに繋がる。
子供であろうが母親であろうがどんな年齢になっても、依存症ないしは共依存、そしてアダルトチルドレンが、ただ不幸なだけの結果を招く。
その子は、自分が誰かの役に立つことを夢見ている。誰かの支えになることを夢見ている。それは全然悪いことじゃない。すばらしい母性だ。
けれどそれが、愛ではなくて、誰かを支えるという「関係性」だけを求めているのだとしたら――。
なんとかして救い出そうとした。
いや、救うという表現ができるほどのことじゃない。ただ、今の自分が何に起因するのか、ただそれに気づくことで、まずは楽になってほしかった。
もちろん、自分の育った家庭環境を否定するなんて、すごく辛い作業だ。それを部外者の私が強いることはできない。それにアダルトチルドレンは、自分で認識してはじめてアダルトチルドレンだ。その子がそんなに絶望的な影響下にあるとも思っていないが、少しだけでもその要素に自分で気づいて楽になってくれればと、自分勝手に私は思った。
でも――。
結論を言えば、私はそれを伝えることに失敗した。
失敗どころか、挑戦もできていない。
この話をちゃんとしようと思って、時間をくださいと言ったら、拒絶された。
自分の内面を誰かに知られることに抵抗を感じるその子には、もう近づくことができなかった。
ことあるごとに、過去について探りを入れる私に気付いたその子は、その詮索に対して圧倒的な辛さを感じていたのだった。
わりと、最悪な、自分。
すべて自分の妄想だったらいいのにな、と思った。
その子から苦しみの話を聞いてるとはいえど極わずかな情報で、それを私は苦しみの話の10%ぐらいだろうと察し、残りもまだまだあるのだろうと思った。
けど、本当はそんな苦しみは一切なくて、その子がアダルトチルドレンでも何でもなくて、すべては勝手に妄想癖の私がつくった虚像だったらいいな。そうだったらそれはそれで自分のアホっぷりに凹むけど、でも誰も苦しまなくて済む。
その子は芸術が好きで、たくさんの美術館に行き、たくさんの音楽を聞いている。芸術の効能で、それらに触れるたびその子は「癒されました」「元気が出ました」なんて言っていた。
そんな話を聞いていると、とてもじゃないけどその子がアダルトチルドレンだなんていうふうには思えない。自分の好きなものを好きと言い、しっかりと好きなものを楽しむ姿は、とても微笑ましい。
しかし、今になって思えば、そういった芸術好きの背景には、それらを鑑賞しなければ、好きなものを好きと言わなければ逃げ場がそこにしかない、その裏返しにも思えてくる。
芸術が好きなその子は、少なくとも上記のようなことは出来ていて、だから対処としては相当救われていたんだろうなと思う。
でもそれが一時的な対処療法でしかないことも、本人は気付いていた。その子が落ち込んでいるときに「私は芸術を見ても根本的には何も変わらないんです」と言われたことがある。
芸術の力を信じる自分が、芸術の限界を知った瞬間でもあった。
その子には今、好きな人がいる。
その相手のことは私も知っていて、男の自分から見ても、とてもいい男だ。過去振り回してきたダメ男とは全然違う。
きっと、本人も今の自分からの脱却に精一杯努力をしている。その道筋の一つで、本当に自分をさらけ出したいと思える相手を見つけたのだろう。
自分の求めているものを本当に把握し、本当は何に拒否感を持っているかに気付き、自分の本物の皮膚で快感と不快を察知してくれるようになることを願う。
最初は、親が子供に及ぼす影響から調べ始めた。例えばDV家庭で育った子供は、成長して結婚適齢期になったとき、あれほど嫌いだったはずの父親と同じような男性を配偶者に選んでしまうことがある、と分かった。
最初はライトなところから、書店で偶然見つけた「娘の結婚運は父親で決まる」(岩月謙司)を読むところから始まった。この著者はいろいろアレだけど、導入としては充分だった。
その後、母校へ足を運んだ。
大学卒業以来、8年を経て初めて恩師の研究室を訪ねた。
なんでダメ親から育って、またダメ男を選ぶんですかねぇ?、なんていう話を恩師に軽く聞いてみた。
そこで紹介してもらったのが「愛しすぎる女たち」(ロビンノーウッド)だった。
恋愛依存症やアルコール依存症の人物の傍らに、依存症の彼らを手助けする「共依存」の輪郭が、次第にはっきりしてきた。ダメ男をどうしても甘やかしてしまう女性の像が、頭に浮かんでくる。
その子に思い切って聞いてみると、その子の家庭がうまく機能していなかったことは、断片的ながら充分うかがい知れた。機能不全家庭だと言っていいだろう。
フリエルは、機能不全家族の特徴としてつぎの十を挙げている。
(中略)
「話すな」のルールと、家族の秘密を守ること。
家族の他のメンバーを介してのコミュニケーション。
不適切な行動や痛みに対する耐性がありすぎること。
(アダルトチルドレンと共依存/緒方明)
まったく誰が見ても機能不全家庭という不幸家庭ではないが、上記をはじめとして、その子の家庭にも薄々感じるいくつかの現象を、感じ取った。家庭の仲の隠蔽された不仲や歪んだコミュニケーション、そしてそこからくる不幸への異常な耐性である。
アダルトチルドレンや共依存の人たちがどんな行動をするのか、様々な書籍を読んでみて調べてみて、そして実際に自分自身がアダルトチルドレンや共依存症だと「自分で自覚している」人に話を聞いてみた。
すると、きっとこのままでは、この子は過去にもこれからも、様々な不幸を呼び込んでしまうのではないかと考えられてきた。
誰かを本気で信じることができないまま、自分が奉仕することを自分の喜びだと誤置換してしまうという不幸。自分が心から誰かを信じることができず、一定の距離間のままでしか誰かと向き合えないという不幸。
このままずっと、この子がそんな不幸な人生を歩んでしまうのか。
今はまだ独身で、社会的なコミュニケーションで表面的に困ることはない。しかしこれから誰かと結婚し、自分自身が家庭を築く番がやってきたとしたら──。
例えば「出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで/鈴木大介」には、どう見ても経済的に最悪な状況の中で生きるシングルマザーたちの奇異な状況が書かれている。
シングルマザーがシングルマザーである所以は唯ひとつ、「子どもを手放さないこと」なのだ。思えば、子どもを手放してしまえば、どれほど身軽になるだろう。彼女らにとって合理的な生活・経済の再建を考えるなら、子どもを養護施設等の公的福祉機関に預けるのもひとつの手段なのだ。少なくとも彼女らには、帰属すべき実家や頼れる親族もいないのだから。それでも彼女らは、手放さない。その手に握った小さな手を、決して手放さない。
私にはこの状況は、母親から子供への過度な依存症にしか見えない。
無防備な子どもを、ただひたすら愛することで、それ自体が自分を満足させることに繋がる。
子供であろうが母親であろうがどんな年齢になっても、依存症ないしは共依存、そしてアダルトチルドレンが、ただ不幸なだけの結果を招く。
その子は、自分が誰かの役に立つことを夢見ている。誰かの支えになることを夢見ている。それは全然悪いことじゃない。すばらしい母性だ。
けれどそれが、愛ではなくて、誰かを支えるという「関係性」だけを求めているのだとしたら――。
なんとかして救い出そうとした。
いや、救うという表現ができるほどのことじゃない。ただ、今の自分が何に起因するのか、ただそれに気づくことで、まずは楽になってほしかった。
もちろん、自分の育った家庭環境を否定するなんて、すごく辛い作業だ。それを部外者の私が強いることはできない。それにアダルトチルドレンは、自分で認識してはじめてアダルトチルドレンだ。その子がそんなに絶望的な影響下にあるとも思っていないが、少しだけでもその要素に自分で気づいて楽になってくれればと、自分勝手に私は思った。
自分の生きづらさをたどっていけば、親との関係に行き着くと自ら認めた人がアダルトチルドレンなのだ。症状の有無、チェックポイントによって他者が判定したり診断することではない。客観的に判定し、レッテルを貼ることは失礼ではないか。
(依存症/信田さよ子)
でも――。
結論を言えば、私はそれを伝えることに失敗した。
失敗どころか、挑戦もできていない。
この話をちゃんとしようと思って、時間をくださいと言ったら、拒絶された。
自分の内面を誰かに知られることに抵抗を感じるその子には、もう近づくことができなかった。
ことあるごとに、過去について探りを入れる私に気付いたその子は、その詮索に対して圧倒的な辛さを感じていたのだった。
わりと、最悪な、自分。
すべて自分の妄想だったらいいのにな、と思った。
その子から苦しみの話を聞いてるとはいえど極わずかな情報で、それを私は苦しみの話の10%ぐらいだろうと察し、残りもまだまだあるのだろうと思った。
けど、本当はそんな苦しみは一切なくて、その子がアダルトチルドレンでも何でもなくて、すべては勝手に妄想癖の私がつくった虚像だったらいいな。そうだったらそれはそれで自分のアホっぷりに凹むけど、でも誰も苦しまなくて済む。
その子は芸術が好きで、たくさんの美術館に行き、たくさんの音楽を聞いている。芸術の効能で、それらに触れるたびその子は「癒されました」「元気が出ました」なんて言っていた。
そんな話を聞いていると、とてもじゃないけどその子がアダルトチルドレンだなんていうふうには思えない。自分の好きなものを好きと言い、しっかりと好きなものを楽しむ姿は、とても微笑ましい。
しかし、今になって思えば、そういった芸術好きの背景には、それらを鑑賞しなければ、好きなものを好きと言わなければ逃げ場がそこにしかない、その裏返しにも思えてくる。
とくにアダルトチルドレンは、他人の世話をしても、自分の世話をするのがヘタです。ここで155の自分の世話をする方法を述べてみましょう。
(中略)
好きな音楽を聞く
映画を見に行く
コンサートに行く
(アダルト・チルドレン 癒しのワークブック―本当の自分を取りもどす16の方法/西尾和美)
芸術が好きなその子は、少なくとも上記のようなことは出来ていて、だから対処としては相当救われていたんだろうなと思う。
でもそれが一時的な対処療法でしかないことも、本人は気付いていた。その子が落ち込んでいるときに「私は芸術を見ても根本的には何も変わらないんです」と言われたことがある。
芸術の力を信じる自分が、芸術の限界を知った瞬間でもあった。
その子には今、好きな人がいる。
その相手のことは私も知っていて、男の自分から見ても、とてもいい男だ。過去振り回してきたダメ男とは全然違う。
きっと、本人も今の自分からの脱却に精一杯努力をしている。その道筋の一つで、本当に自分をさらけ出したいと思える相手を見つけたのだろう。
自分の求めているものを本当に把握し、本当は何に拒否感を持っているかに気付き、自分の本物の皮膚で快感と不快を察知してくれるようになることを願う。
私は彼らに次のように助言したいのです。注意深く自分の感覚に問いかけて、心地良いと思うことをし、イヤと思うことはしないことです。「……しなければならない」とか「……するべきだ」と自分を叱ってムチで打ちすえてはいけません。
(家族依存症/斎藤学)