政治的思想を述べたいわけではなく、広場の効能について考えてみたいのでエントリーを書く。

中国でデモが起こっているというが、果たしてどんな場所に人が集まっているのだろうか?
日本のデモというと、最近では大飯原発再稼働に反対するデモが記憶に新しいが、東京でのデモの場所は首相官邸前である。そこは別に大した広場があるわけではなくて、普通の道路である。デモに参加したことがないからよくわからないのだが、そんな道路でどのようにデモが行われているのか、謎だ。

日本には広場がないとはかねてからよく言われていた話で、広場がないから人が集合しにくい、だから革命が起こりにくいという言説もある。
今回の尖閣デモでは話は聞かないが、中国といえば天安門広場がある。数ヶ月前に初めて北京を訪れたとき、天安門広場にも足を運んだ私であるが、その広大さに驚いた。
そして、そのただ何もない広場に、大勢の人が集まっていることに驚いた。天安門広場は最大で50万人収容できるという。50万人が一堂に会したら、どれだけの社会運動になるというのか。

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世界にはいろいろな広場がある。
例えばフランスのコンコルド広場。まさに革命の舞台ともなった場所で、革命広場と呼ばれる。「革命広場」と呼ばれる場所は世界の他にもあるようで、ぐぐったところによると、キューバやルーマニア、ロシアにもあるそうだ。
大きな社会運動の代表である革命と、広場という機能は、どうやら密接に関係していそうだ。

さて、演劇人の立場からは、かの井上ひさしはじめ多くの演劇人がこれまで語ってきているように、劇場を広場として定義し、劇場空間に広場の機能を持たせようとしていることを思い出したい。

井上ひさし出身の山形県川西町の公共ホールは、その解説に「呼吸する劇場、そして広場へ」と書いている。

私の出身地、愛知県豊橋市にもまもなく新しく演劇用公共ホールができるが、その完成前に発表されているインタビューのタイトルは「新しい広場を作る」である。

私が今住んでいる東京都世田谷区の公共ホール、世田谷パブリックシアターも、初代芸術監督佐藤信が劇場を広場と捉えていたのは知られた話である。

ところで、東京のどこに広場があるのかと考えると、少なからず各駅前には広場と名のつく場所があることが思いつく。
たとえばこれまたうちの近所の自由が丘にも、駅前広場がある。以前の広場からリニューアルして1年半ほどは経過しただろうか。新しい自由が丘駅前広場だ。

普段はタクシーがとまったり、バス停があったりする、広場というよりも駅としての機能を果たしている場所だ。
だが、たまに自由が丘駅周辺でイベントが行われると、ここが一気に広場に変化する。
今年ももうすぐ自由が丘最大のお祭りである自由が丘女神まつりが開催されるが、この駅前広場に大きなステージが設置され、人が集う。普段ここにやってきているタクシーやバスは追い出され、つまり駅としての機能は外に追いやられる。そして、人が集い交流する機能としての広場に変身するのだ。

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先月は、上記写真のように、この駅前人場で盆踊りが開催されているのを見た。
やはりタクシーやバスを追い出し、駅前広場にやぐらが立てられていた。そして町の人たちが、広場で盆踊りを踊っていた。

ちなみに、国政選挙のときにはこの広場で演説も行われる。革命の演説ではないが、駅があり人が通過する場所だからという意味ではなく、ここに人が集う広場だという意味で、なんだかそれがとても頼もしいことに思えるのだ。

無いと言われ続けてきた東京の、日本の広場が、(いやこれは「広くない場」かもしれないけれど)私たちの社会運動の土台とまでは言わずとも、これからの私たち同士の交流の土台となることはあるのだろうか。

盆踊り翌日、片付けられたやぐらの骨組みが積まれている自由が丘駅前広場↓。

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