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今年もマイクロファイナンスを学びに行ってきた。
昨年はベトナム(ハノイ)、今年はカンボジア(プノンペン)への旅である。
ミュージックセキュリティーズで販売しているマイクロファイナンスのファンドへの投資をきっかけに参加させてもらったという経緯で、今年はカンボジアのサミックというマイクロファイナンス機関や、その融資先顧客を訪問してきた。

今回の私の旅の目的は、最近悶々と考えているあるテーマの解を見つけること。
そのテーマとはこれだ。
・グローバル資本主義はこのまま続くのか。
・途上国が発展をし続け、いつか日本に追いつくまでになったら、世界はどう変わるのか。

結論的にはこのテーマの解を見つけることはできなかった。
しかし、考えるヒントをたくさん得られたので、自分の整理がてら書いてみようと思う。いや、整理できてないけど。

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DSC_0155 posted by (C)nekodemo

■資本主義は誰かからの搾取であるという発見
私は最近、のほほんとした毎日のなかで、こんなことをおぼろげに考えている。
それは、資本主義は、誰かから何かを「搾取する」ことでしか成立し得ないのではないか、ということ。

このことを考えるきっかけとなったのは水野和夫氏の主張で、資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)を読んで唸るほど納得した。(その主張内容についてはこちらのブログが詳しい。ところでこの本のタイトルは、鈴木忠志の劇団SCOT「世界の果てからこんにちは」にヒントを得たそうだ。)

水野和夫氏以外にも、平川克美氏など、「(グローバル)資本主義オワコン」説を唱える人は多く、リーマンショックから東日本大震災を経て、そういった著名人ではなくても資本主義に懐疑的になっている庶民は私の周りにもいた。しかし私はつい最近まで「そうは言っても資本主義って大事じゃん(資本主義が立ち行かなくなるわけがない)」と思っていた。なんだかんだ言って経済成長しなきゃだめじゃん、と思っていたのである。


■私にとって身近な国内の格差
しかし、私がそう思っていたのは、あくまで「私たち」がみんなで「一緒に揃って」経済成長を成し遂げられるという前提条件があったことに気づいた。一緒に揃って成長できれば不幸せになる人はいないだろう。しかし、落ちこぼれる人が出てしまう社会では、「一緒に揃って」成長することは、難しい。新自由主義的には、敗者を助けられるセーフティーネットを(再チャレンジできる仕組みを)作ろうという主張になるのだろうが、周囲を見ていると、そんなセーフティーネットなんてまやかしにしか感じられない。

私にとってこの現象を身近に感じる事例は、国内におけるいわゆる「格差」だ。世代間格差はもちろんのこと、同世代間でも格差を感じることがある。
私はたまたま仕事のある東京にいて、たまたま成長産業に従事していて、たまたまちゃんと給料をもらえている。しかし、たまたま地方にいたり、たまたま斜陽産業に従事していたり、たまたま非正規雇用で不安定な暮らしをしている同世代がいることも知っている。本人の努力とはまったく関係ない理由による「格差」の発生だ。というか、今後それらのうちひとつでも自分に当てはまったら私も即格差闘争の仲間入りだなという感覚がある。
これは社会主義思想における、ブルジョア、権力者、植民地勢力がよい暮らしをしているのは労働者から搾取しているからだ、という考え方よりも身近な思考だ。

いつだったか新潟の山間部出身の同世代の人と話していたときの話だ。
「田中角栄のおかげで高速道路で東京にすぐ行けちゃうんだよ。だから誰も地元に残らない。高校卒業したらみんな東京に来る。というか来ないと働く場所がない。でも学歴がなかったらブラック企業か非正規でしか働けない。非正規でしか働けないから給料が低い。給料が低くて貯金できないから不安定で…(以下無限ループ)」という悲しい話になった。

自覚の有る無しにかかわらず、同年代であっても自分と違うクラスタの人たちと触れ合う機会は、驚くほど少ない。職場の外に友達を作ってみようとしても、なんとなく同じクラスタの人たちとの交流になる。適当にそのあたりのバーに入ってみても、同じクラスタの人と隣になったりする。きっとそれは消費の方法をはじめとする行動原理が似通るからなのだろうと思うのだが。さらには、違うクラスタの人が特段不幸せそうに見えるわけでもないし。
そして結局、自分の周りに違う層がいることに、気づきにくい。だけど、はっきりと身近に格差はある。


■途上国でも金がジャブジャブし始めているという仮説
さて、マイクロファイナンスの話に戻ろう。
プノンペンに出かけたら、驚くほどの経済成長を遂げていて大変活気があった。カンボジアといえば発展途上国の中でもスタートが遅いほうの国だったはずなのに、この活況は何だろう。消費社会の象徴、イオンのショッピングモールまで出来てるし。

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そこで疑問がわいてくるのだ。こんなにしっかりと経済成長しているこの場所で、マイクロファイナンスは必要なのか、という疑問だ。ぶっちゃけ、都市化した街では金がジャブジャブ余り始めているのではないか、マイクロファイナンスなんて要らなくないか、と思ったのである。

今回視察させてもらった結果、疑問の半分は間違っていて、半分は当たっていた。

疑問が間違っていたことは、田舎に行けばまだまだ金融アクセスが整っていないという事実により証明された。首都プノンペンから車で1時間もいけばすぐに田舎になり、様々なインフラが整備されていない状況を目の当たりにする。近所に銀行はない。マイクロファイナンスの必要性を肌で感じる環境だ。

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一方で「マイクロファイナンスなんて要らないのではないか」という私の疑問は、首都プノンペンでの視察で確信に変わった。プノンペンでは、マイクロファイナンス機関同士の競争が発生していると聞いた。借り手にとって、いくつものマイクロファイナンス機関を選べる環境にあるという。
(いくつもの貸し手から選べる環境にあるにも関わらずその情報が行き届いていないという情報の非対称性の問題もあるが、それは置いておこう。)
マイクロファイナンス機関同士の競争があるということは、(詳細は長いので省くが)貧困削減を目的としたマイクロファイナンス機関だけではなく、ドライに収益目的で運営されているマイクロファイナンス機関が存在していることをも意味していた。よく考えると、収益目的であってもお金に色はないわけで、それでマイクロファイナンスが成立して助かる人がいるのなら、それはそれでいいのではないかとも思えてくるのだけれど。
(マイクロファイナンス事業からスタートしたACLEDA銀行は、カンボジア有数の商業銀行になっているらしい。ACLEDAにはオリックスも出資している。)

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DSC_0281 posted by (C)nekodemo

さて、いくつものマイクロファイナンス機関が存在しているということは、金融の仕組みがどんどん整備されているということだ。お金を借りることが容易になれば、ビジネスで成功する人もでてくるだろう。実際かなり成功している人にも会った。

次回へ続く