NEWS23で、愛知県立刈谷東高校演劇部の特集をやっていた。
「不登校児が演劇部で自らの体験をもとにした朗読劇を上演した」という話題だ。
高校演劇というと、いまだに一般社会からみるとロミオとジュリエットのイメージがあるし、あるいは現代劇をやる場合でも、劇団四季的なイメージや学芸会的要素のものと勘違いされることも多い。
しかし実際は、生徒が自ら台本を創作し、自らセリフを書き、自ら演技・演出をつけることも多い。その台本の題材も、学園ものからファンタジー、時代ものや現代社会を風刺したような内容、不条理劇まで多岐に及ぶ。
そんな高校演劇のなかで、刈谷東高校演劇部は、自らにもっとも近い題材として学園ものを選んだ。しかも「不登校もの」を選んだ。
演劇部の彼ら・彼女らは、自らが不登校だった経験があり、それをもとに朗読劇をつくりあげたのだ──。
刈谷東高校のこの朗読劇の存在は、高校演劇界ではちょっとだけ有名な話で、去年の全国大会にも刈谷東高校は出場している。(高校演劇の全国大会には、中部ブロックからは1校しか出られない。よって、中部ブロックの唯一の代表校が、刈谷東高校の「特殊な」劇に決まったときにはネット上でも話題になったものだ。なにせ演劇部員は、普段は創作劇でも普段の自分とは違うなにかを表現することがほとんどだ。そのなかにおいて「自らの経験をそのまま真正面から題材とした」劇である。話題をさらった。)
ちなみに刈谷東高校の演劇部顧問の兵藤友彦先生は、地元の中の地元ではそこそこ有名だ(と思う)。その名前は、私も自分が高校生の頃から存じ上げていた。かつては安城農林高校かどっかにいたんじゃなかったか。西三河地区で唯一私が知っている顧問名だ。
ちなみにテレビ番組の中にもでてきた、刈谷東高校が「うちで上演してくれ」という旨の上演依頼を受けて遠征していた石川県の中島高校は、演劇コースのある演劇の盛んな高校である。中島高校のある中島町は(今は平成の大合併で七尾市になってしまっているが)、かつて、演劇人の間で超(?)有名な能登演劇堂を作った町である。(人口わずかの田舎の町に、税金をめちゃくちゃ投入して超使いやすい演劇専用ホールを建築し、そこでプロの芝居を上演し金沢や東京から観客をたくさん集めている。公共ホールのあり方論の話でもよく引き合いに出されるし、田舎の町おこし事例としても興味深い。)
と、まぁ高校演劇マニアを彷彿とさせるそんな話題はこのくらいにしておいて。
今回テレビ放映を見て考えたのは、「演劇の力とは何か?」ということだ。
これは演劇人の間ではさんざん語られているテーマなのだが、改めて考えてみたい。(「演劇の力」といっても、「演劇を見る場合」と「演劇を演じる場合」に分けられるが、今回は「演じる場合」について考えてみる。)
教育現場で「これからは演劇が必要だ!」(演劇を教育に取り入れよう)と語られるとき、その理由としてあげられるのは、以下のようなものだ。
・演劇をやれば、他者を演じることで他者の心情を理解することが出来るようになる
・演劇をやれば、演技の中で他者とのコミュニケーションを行うことが出来、コミュニケーション力を身につけられるようになる
・演劇をやれば、自分自身の独自の表現方法(表現すること、あるいは表現しないこと)を身につけることが出来る
・演劇をやれば、演劇をつくる過程において 自分と違う背景を持つ人たちと密に接することになり、膝と膝をつき合わせたコミュニケーションがとれる
今ちょーてきとーに思いついて箇条書きにしてみたのだが、だいたいこんな感じだろうか。
海外の先進諸国ならば必ずある演劇の授業がなぜか日本にはないので、日本でも教育現場に演劇を取り入れましょうよと、その道の専門家が声高に言っている その理由だ。
教育現場はもちろんのこと、我々が働いている会社組織のなかでも「コミュニケーション力」というのは大事なキーワードとしてよく取り上げられる。人と何かのやり取りをするときには、知性や知識も重要だけど、それよりなによりコミュニケーション力が一番大事だよ、みたいに。で、コミュニケーション力を身につけるためにはどうしたらいいかというとき、演劇はそのためにすごく使えますよという論法が成立する。演劇なんて、人と人が対話してなんぼのものだから、演劇をやることでコミュニケーションを実体験できるわけだ。なので、コミュニケーション力アップにはもってこいなのだ、と。
あるいはもう少し踏み込んでみると、自分自身を相手に適応させるコミュニケーション力だけではなく、相手との関係性を理解して、相手の気持ちを理解する、というのにも演劇は役立つ。
例えば、「こんにちは」というセリフを自分が発したとき。そのセリフを発したあと、相手がどのような反応を示すかによって、その後の自分の行動をいくつにも考えられる。相手が屈託のない笑顔を浮かべて「こんにちは」と返事してくれれば、こちらもそれに続けて「いい天気ですね」とかなんとかスムーズに会話を続けられる。しかし、こちらが挨拶をしたのに無視されれば(文字にすると「……。」というセリフだったりすれば)、こちらは怖じ気づいて何も言い返せない。あるいは、そこまでいかなくとも、返ってくる反応が「こんにちは。」ではなくて「……あ、こんにちは。」だったら、また対応の仕方は変わるだろう。「何か考え事でもしてました?」と会話を続けるかもしれないし、会話を続けるのはよそう思ってにこにこしたまま通り過ぎるだけにするかもしれない。相手との関係性を判断して、その場を切り抜けるのだ。
「自分」と「他者」という関係性は、ときには親しげであるかもしれないがときにはぎくしゃくした関係であるかもしれない。親しげならそれで良いというわけでもなくて、ぎくしゃくした関係のときにでもお互いがどういうような距離感を取れるのか、あるいは実際取っているのか、演劇をやればそのままシュミレーションになるのだ。
平田オリザ氏などがよく言っていると思うが、今の日本社会(都市社会)は地縁というものが極端に薄れており、小さい頃に自分と違う世代と交流を持つことが少なくなっている。違う世代との交流が少ないというか、自分と違う生き方をした人との交流が少ないのだ。
そうすると、普段 自分と距離感の遠い人と接触が少なくなってしまい、何かのきっかけでやっとその遠い人と出会えたときには接し方が全然分からない。実際、自分がそんな日本社会で育った世代だから、身に染みてそれは感じる。小さい頃、そんなに異なったライフスタイルを持った人との交流は自分自身が経験していない。だから大きくなってから、違う世代や違う生き方の人と会ったとき、どうしていいかわからなかった。で、悩む。今でもどぎまぎだ。
だがもしも演劇をやって、他者との距離感というモノをリアルに感じることが出来ていれば、もしかしたらぎくしゃくした関係さえ素直に受け入れられるかもしれない。ま、そんな簡単にはうまくはいかないだろうけど。でも、普段の日常にはない関係性を、シュミレーションの中で体験するというのはとても意味あるものだろう。
と、前置きが長くなりすぎたのだが、教育現場における演劇の効能というと、細かいところを省くと以上のような解説で語られることが多いと思われる。主に他者との関係性という部分に主眼を置いた「演劇の効能」である。日本演劇教育連盟の雑誌を読んでみたり、各種演劇ワークショップのレポートを聞いてみたりした感じでそう思うのだ。ちゃんと各種レポートや専門家の話を鮮明に覚えているわけではないが、だいたいそうだろう。
だが、今回NEWS23を見ていて、演劇の効能にはもう一つあるのだな、と感じた。
その効能とは、演劇をやれば「自分自身を深く観察する」ことが出来る、ということだ。
今回NEWS23で取り上げられていたのは、刈谷東高校演劇部の不登校を題材にした朗読劇で、そのまんま役者たちの「不登校」という実体験を脚本におこしたものだ。まんま自分の実体験をモチーフにしている。
しかも演劇はそれを台本にするだけで終わるのではなくて、それを舞台で演じるというところまで行う。舞台で演じるためには何度も何度も時間をかけて稽古を行わなければならず、その過程でセリフの一つ一つと向き合う時間がたくさん出てくる。自分の過去をモチーフに書いたセリフと、じっくり時間をかけて向き合わなければならないのだ。
そうすれば自然に、過去の自分と対峙し、自分から逃げずに自分自身を深く観察する必要性に迫られる。普段だったら逃げているイヤなこととも向き合い、自分と向き合うのだ。日常では出来ない経験だ。
かつて私が就職活動をしていたとき、「自分を振り返って自分がどんな人間なのか自己分析をしてみましょう」なんていうことを周りからよく言われたものだが、演劇をやっていると自然に自分と向き合うから、勝手に自己分析になるのだな。本当の自分とはなにか、ということ探る意味で、演劇というのはとても効果的なのだ。
もちろん、本当の自分なんてそうそう簡単に分からないが、どんなシチュエーションで自分がどういう仮面を被るのか、とか、どんな人と話しているときに自分がどういうテンションになるのか、というのを知れるから、それだけでも充分価値あることだ。
ちょっと話がずれるけど、平田オリザ氏が「本当の自分なんていうものはなくて、みんないくつもの仮面を被って状況によってそれを付けたりはずしたりしているだけだ」なんて言っていて、私は大変共感した。どれが本当の自分でどれが嘘ものか、というのではなくて、どれも全部自分なのだ。「ペルソナ」というと「仮面」のことであり、いろんな仮面を付け替えるというと「ペルソナを付け替える」となってしまうのだが、ペルソナはそもそも「人格」の意味でもあるから、ペルソナ全部が自分の人格であって然るべきなのだと。
話が逸れた。
そんなわけで、演劇の効能の一つとして、自分と深く向き合うというのがあることを認識した。今までもそれに気づいていなかったわけではないけど、今は自分が役者として舞台に立っていないから、そういう状況を久しく忘れてしまっていたよ。テレビを見て久々に気づいた。
念のため書いておくが、別に刈谷東高校演劇部がたまたま不登校をテーマに扱ったから、だからこの演劇部の生徒たちだけが自分と向き合っている、というわけではない。どんな芝居を上演したって、どんな演劇でも自分と向き合う必要性には迫られる。
もう私も自分が役者をやっていた頃なんて、高校生時代にまで遡らなければならないから記憶は古いけど、私も一つの役を演じるにあたって、いろんな考察を繰り返したものだ。この役はどんな人物なんだろうと思いを巡らしながら、この人物はどういうものの考え方をするのだろうかと考える。一方でその考え方が、それまでの「自分の思考の仕方」と違うということに気づいたとき、否応なく自分自身の性格と照らし合わせざるを得なかった。
ときには自分のそれまでの性格と、演じる人物の性格との間に新たなギャップを感じ、それを新鮮に感じてその後の自分の性格が変わっちゃうこともある。演じる役の性格が、自分の性格に乗り移っちゃうような状態だ。高校演劇をやっている思春期高校生で、「性格かわっちゃった」という話は、結構耳にする。
俳優の柳葉敏郎も、踊る大捜査線で室井慎次というキャラクターを演じて自分の性格に影響を及ぼしたらしいね。
演じるって、とても面白い行為だ。
やっぱり、演劇教育をどうにかして日本にも取り入れたいな。