プロ野球にまつわる仕事をしていたことがある。
その影響もあって、今でも地方に出かけると、その土地にある野球場が気になってしまう。

先日、福岡に出かけた際、時間があったのでヤフオクドームで開催されていたソフトバンクホークス対楽天イーグルスの試合に当日券を購入して入場してみた。

せっかく福岡に来たので、ホークスの応援をする気まんまんだったのだが、窓口で「一番安い席ください!」と言ったらその席はイーグルスファンが集結するビジター席だった。
仕方ないのでイーグルスを応援するにわかファンの私である。
仙台には先月2回訪問し、通算一週間ぐらい滞在していたので、楽天イーグルスに縁がないわけではない。

しかし致命的なことに、私はイーグルスの選手の名前をよく知らないのである。唯一聞いたことのある名前の選手がいたけれど、甲子園で活躍した高校球児として知ってた名前であって、イーグルスの選手として知っていたわけではない。なのにイーグルスを応援するとは。なんてこった。

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だが、周りに座っている人たちは、(おそらく)わざわざ東北から福岡まで遠征してきている熱心なイーグルスファンである。応援への熱のこもり様が半端ない。
なので私もがんばって応援した。一人として選手を知らないけど、イーグルスがんばれ、と! そうすると段々楽しくなってくるのだ。知らないチームなのになぜか応援って楽しいぞ、と。

けれども、ふとした瞬間に私は思うのだ。「あれ? なんで自分は縁もゆかりも無い人たちを応援しているのだろう?」と。
そして周りの人たちを見ても思うのだ。「なぜこの人たちはこんなにプロ野球チームを応援しているのだろう?」と。
負けると自分が追放されるとか、選手の家族だから応援するとか、そういうことでもないだろうに、なぜ応援するのか。根源的な疑問が沸いてきた。


ところでこのあいだ、東大EMP×アカデミーヒルズライブラリー「モラルの起源を考える―実験社会科学からの問い」というセミナーに参加してきた。東大の先生があれこれ教えてくれる、こむずかしい勉強会である。そこで聞いた話や、そこで登壇されていた東大の亀田先生の著作「モラルの起源」を通して知った話だが、誰かとの安定した協力関係のことを示す「互恵的利他主義」という考え方があるという。相手を利する「利他主義」であるが、そこに「互恵的」という修飾語を加え、将来の見返りがあることを前提に相手を助ける行為を指すそうだ。

もしかしたら、プロ野球チームを応援するというのは、この互恵的利他主義で説明できないだろうかと思っている。プロ野球チームが勝つことで、直接的な見返りは無い。だがそのチームが勝つことで自分の気持ちが高揚したりして、いい気分になることはあるだろう。つまり自分が気持ちよくなりたいから、そのチームを応援するのである。

だいたい合理的に考えると、スポーツチームを「応援する」とか、あるいはもっと広い意味で言って、何かを「祈る」行為って、合理的に考えるとおかしい行動ではないだろうか。
野球場で応援すれば、選手の耳にその声が届き、選手のやる気が膨らむことはあろう。だがテレビの前での応援なんて、合理的に考えれば無意味。パブリックビューイングなんかも無意味。
あるいは例えば、子どもが受験に合格しますように、って言って親が天満宮にお祈りするのも無意味。
なのに人は、誰かのためを思って応援したり、祈ったりするのだ。それは応援した相手が成功することで、自分が気持ちよくなりたいという互恵的利他主義で説明できはしないか。


さて、脳みそには、rTPJという部位がある。日本語でいうと右側頭頭頂接合部というところで、この部位は、共感や道徳判断、利他主義との関係が指摘されているという。この部位が他人への思いやりの機能を持たせているのだ。さらにいえば、人は他人への思いやりの機能を、部位として持った状態で生まれてくるのだ。
だが、その思いやりは完全な自発的な利他主義ではなく、あくまで自分が気持ちよくなりたいだけのための互恵的利他主義かもしれない。

誰かのためを思って行動することは、多くの人に賞賛される。自己都合ではなく他人への思いやりが感じられるからだ。しかし本当は自分が気持ちよくなりたいがために他人に優しく接しているとしたら、かなりたちが悪い。「余計なお世話」や「ありがた迷惑」という言葉は、そんなときに発せられるのかもしれない。

見返りなんて一切期待せずに、誰かを思いやれる人間になりたいと思う。
でも脳みそ的にそんなことが無理なのであれば、せめて、他人を思いやる行為は全部自分のためにやってるんだぞと、牽制する自覚を持ちたい。



モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)