先日、仙台で大学生向けに講演をしてきた。講演にあたり、主催者側から指定されたプレゼンテーマのひとつに「社会を変えるやりがい」というものがあった。
お題を与えられて、はて、何を語ろうかと考えた。結果、これを喋ったほうがいいだろうなと思い、決めたのがこの話だ。

kodoku
↑そのとき使ったスライドの一部。


普段、あっちこっちに興味が向いてしまう私。
だが、その「あっちこっち」のそれぞれに共通しているものがあることに最近やっと気づいた。それが、「孤立を防ぐ」という言葉だ。

私が仕事で人と人とのマッチングをしているのも孤立を防ぐため、だ。
プライベートでいろんな人を集めているのも孤立を防ぐため、だ。
寄付先としてひとり親支援団体や貧困家庭の教育支援団体を選んでいるのも、彼らの孤立を防ぐため、である。
舞台芸術に深く関与しているのも、舞台芸術が多人数での共同作業によるもので、孤立を防ぐ機能を持つからだ。

kodoku

上記も仙台でのプレゼンに使ったスライドの一部である。このときは仕事に偏重した話だったのでそこにフォーカスした書き方をした。しかしこれ以外にも、あらゆる選択の機会において、私は「孤立を防ぐ」ことを基準にしている。(ということに気づいた。)


さて、先日、熊本地震の復興支援をしているNPOが一堂に会した忘年会が熊本市内でおこなわれた。私も参加し、いろんなNPOの方のお話を聞いていたのだが、気づいたことがあった。それは復興においては、外部の人にもわかりやすく見えやすい成果が必要であるということだ。
もっとつっこんで言うと、見えやすい成果がなければ、そこに支援が必要であることを他人に理解してもらえないということでもある。

復興において「孤立を防ぐ」ことは重大な課題設定であると私は思う。しかしそれにも関わらず、孤立を防ぐことの重要性は、成果が見えにくいため一般に理解されづらい。

成果が見えやすい復興支援というと、崩れた家屋を整理するとか、どこかでご飯の炊き出しをするとかそういうやつだ。これはこれで大事である。
しかし一方で、孤立を防ぐために、近所の被災者同士が復興住宅でもご近所同士になれるように後ろでバックアップする、なんていう活動もある。しかしこれらは成果がわかりづらい。ご近所同士で仮設住宅や復興住宅に入居することになんの意味があるのかと言われてしまうなど、数値化しづらい側面もある。本当はそういったことこそ孤立を防ぐための良い取り組みなのだが、あまりインパクトもないし、理解されづらい。

比べちゃ悪いが、目に見えて「津波」という脅威が襲ってきた東日本大震災と比較しても、可視性を伴っての復興というインパクトが薄いので、支援の数そのものがどうしても少なくなるのだろうと感じる。


閑話休題。

じつは、熊本の復興だけでなく、孤立している人は日本のあらゆる場所にいる。都会にこそ、多くの孤立した人たちがいる。
地震や豪雨などの自然災害には見舞われていないけど、日々生活していくなかで誰とも会話をしなかったり、いざというとき助けを呼べる人間関係がなかったり、そんな人がたくさんいる気がする。

そんな社会はさんざんである。

どうにかして、孤立しない社会をつくりたいと思う。