日本でも格差が広がっている。と思っている。

最近話題の書籍「新・日本の階級社会」で、著者橋本健二氏はこのように言う。
人々は、自分にとって都合のいいように社会の「かたち」を描こうとする。特権階級は、自分たちが恵まれた立場にあることを隠すため、いまの社会では格差が小さいと主張するだろう。逆に下層階級の人々は、格差が大きいと主張するだろう。
新・日本の階級社会 (講談社現代新書)222ページ

格差が広がると社会は不安定化する。それは過去の歴史が証明してきた。
「持つ者」と「持たざる者」の格差が広がったとき、持たざる者はその社会に耐え切れなくなり、いつか暴発する。

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先日、ポーランドのアウシュビッツに行ってきた。
第二次世界大戦時、ナチスドイツによって、ユダヤ人をはじめとして差別を受けた人びとが収容され、そして殺された場所である。
当時から形を変えずにそのまま保存されているアウシュビッツは、あまりにもなまなましく、私たち現代人に当時の教訓を伝える。真冬の極寒の中、突き刺さるような冷たい風を肌に感じ、かつてこの地で無残にも殺されていった人たちに思いをはせる。
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アウシュビッツには、世界各国から多くの人たちが今でも見学に訪れている。
戦争当事者であったドイツの人々、ユダヤ系の人々、当地ポーランドの人々、EUとして今や一体化を見せつつあるヨーロッパ各地の人々、そして我々アジア人のような人々――。
世界各地から訪れるこれらの人々が、アウシュビッツから得る教訓とは何だろう。

教訓として例えば「戦争はよくない」「差別はよくない」と言ってしまうことは簡単だ。当たり前に、その通りの教訓である。
しかしどうだろう。アウシュビッツの惨劇が世界で広く知られるようになって以降も、世界では常に戦争が起こり続けている。そして今も現在進行形で、差別や迫害が起こり続けている。戦争はよくない、差別はよくないという教訓を、実行に移すことは意外なことに、簡単ではない。

もちろん私も、アウシュビッツで、戦争や差別は良くないと考えた。しかし一方で、もしかしたらそう考えている自分自身が、じつは無意識化で差別をしている側なのではないかということも感じた。

ひとつ例をあげる。
もしも自分が「持つ者」の立場だったとして、自分とは異質な「持たざる者」が自分の並列に立とうとしてきたとき、あるいは追い抜かれそうになったとき、自分はそれを素直に認めることができるだろうか。
誤解を恐れずいえば、自分より下だと思っていた人が自分を追い越したとき、その人を単純に受け入れられるだろうか。リスペクトできるだろうか。たまたまその人が、自分と異質なものを持っていたとき、執拗にその異質さにフォーカスして攻撃してしまわないだろうか。

私にはこんな経験がある。
あるとき宿泊した地方のホテルの朝食会場で、中華系の観光客が大勢いた。インバウンド観光客である。
バイキングの朝食会場だったわけだが、とても混雑しているその中、バイキングの列で私が並んでいたら、横からやってきた中華系観光客の人が列に「横入り」してきた。それに対して私はむかつくと同時に、思ったのだ。「あーあ中華系だから仕方ないな」と。

しかしむかついたついでに私はその中華系の人に毅然とクレームを言ってみたほうがいいのではないかと思った。そこで声をかけたのだ。「うしろ並んでますよ」と。するとどうだろう、その人は、すぐに「すみません」と言った。そしてすぐに私に場所を明け渡してくれた。おそらく、私が後ろに並んでいることに、ただ気づいていなかっただけだったのだろう。
そのとき私は猛烈に自分が恥ずかしくなった。その中華系の人は、ただ気づいていなかったのに、私はコミュニケーションを取る前から「中華系人種はマナーを知らない」と勝手にレッテルを張り、怒りをため込もうとしていた。勝手なレッテル張りだ。自分が心底恥ずかしくなった。

爆買いをする中華系のインバウンド観光客を見て、日本のマナーに合わないことをやっているからと、それをコミュニケーションも取らずに白い目で見ることって、よくある光景ではないだろうか。
ひどい言い方をすれば、言語や国籍で「日本人とは違う」人たちが、自分と少し違う行動をしたとき、それを「中華系だから」という身もふたもない人種論で片づけてしまっていないだろうか。私たちはその人たちを、人種どうこうの前にまず「人間」として見られているのだろうか。

もしかしたら、これまでは中華系のインバウンド観光客を見かけたとしても、自分に影響は無いからと無関心でいられることもできた。しかし今や、例えば小売店や飲食店の立場からすると日本人以上にお金を使う中華系の顧客は、日本人顧客より大事にされている場合もある。そうすると、自分より厚遇される異人種を見て、嫉妬心もあいまって、差別心がはからずも芽生えるかもしれない。


もっともっと身近な例を話そう。
日本の会社組織の話だ。ダイバーシティ&インクルージョンを叫びながら全然それが進まない日本企業。働き方改革を内外で訴えながら全然労働時間は削減されないし非正規雇用は増え続けるしハラスメントも減らない日本企業。

なぜまったく変化が起こらないのか、その理由を考えていたときに、私はひとつの仮説にたどりついた。

それは、会社組織のなかの「持つ者」が、会社の中の「持たざる者」を無意識的に差別しているからではないからではないかと。
例えば非正規雇用をずっと非正規雇用のままとし、正規雇用への入り口を大きく狭めているのは、ほかならぬ「持つ者」である正規雇用側が、非正規雇用に追い抜かれたら困るからである。「オレの権力はオレにあるまま」がいいのだ。
例えば週5フルタイムや残業前提で働くことを さも当然と考え、子育てや介護のような制約を持つ社員の多様性を認められないのは、週5で働くというルール上の既得権益に乗っかりたい「オレルールを持つ者」が、時短勤務の人に成果を出されてしまうと自分の立場があやうくなるからである。
本当に自信がある人は、既存ルールなどどうでもいいと思うだろうし、成果を出すからそれで判断してほしいと願うだろう。けれど残念ながら、多数の人々は、そんな自信はない。だからこそ既得権益にしがみつき、自分が「持たざる者」側になることを避けるべく、必死に「持つ者」側の立場にしがみつくのだ。

持つ者は、自分が持つ者側であることに無自覚だ。
しかしまずそれに自覚的になりたい。別の言い方をすれば、無自覚に多数派に属することに、懐疑的になりたい。
そのうえで、持たざる者である弱者の視点を持ちたい。


私は今、この文章を香港の街はずれのカフェで書いている。せまい香港の中にも、観光地ではないエリアでは、日本人の姿を見ない。この場所では私はマイノリティである。
マイノリティの立場に敢えて身を置くことは、決して気持ちいいことではない。しかしその気持ちを分かろうとしなければ、断絶を乗り越えることはできないし、争いを解決することはできない。

アウシュビッツが私に教えてくれた、教訓である。

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2014年に、貧困解消が格差是正になるかどうか考えたときの話はこちら。
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