いろんな意味で話題の、「ダミアン・ハースト 桜」はみなさん見に行っただろうか。
カーサ ブルータスにも記事が載っていたよ。

長濱ねるが日本初の大規模個展『ダミアン・ハースト 桜』で没入体験。


現代アートに一家言ある人たち界隈は、見る前から既にいちゃもんがついていたダミアン・ハーストの本展覧会だが、おおむね見に来ている人の多数派はアートの文脈なんて気にしていないので、SNSを見る限り好意的な感想が目立つ。

何より本展覧会は、来場者がSNSに感想をアップしながら、そこに作品の「桜」にしれっと投稿者自身が写りこんだ写真を挿入しているというシチュエーションが興味深い。

現地に赴くと、桜の絵にスマホのカメラを向けている人の多いこと多いこと。

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こっちにも、あっちにも。

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「へーみんなアート好きなんだね、桜の絵を撮っているんだー」と思いきや、じつはそんなことはない。むしろ桜の絵は写真の背景に過ぎず、主役はそこに写りこんだ「人」だということがわかってくる。


ただし人が主役の写真とは言え、あからさまにその人が「いえーい」というポーズをキメているわけではない。
あくまで「桜の絵を鑑賞している私」を撮っているのである。桜の絵に加えて後ろ姿の鑑賞者、という構図の写真が、インスタには多くあがっている。

「すてきな絵を見ている『私』ってすてきでしょ」っていうことかしらん。









もちろん、中には人が写りこまず、桜の作品をそのままダイレクトに写真撮影し、それをアップしているインスタアカウントも見受けられる。
しかしそれはそれで、私の勝手な解釈では「桜の絵を私がキュレーションしました、えっへん」感を感じる。





特に今回のダミアン・ハーストの作品たちは、キャンバス全面に桜が描かれていることが特徴だ。よって、キャンバスに描かれた桜の絵の「ある一部分」のみを意図的に切り出したとしても、素人目には違和感を感じないようになっている。つまり、インスタ用に正方形に特定部分を切り出してみても、「きれいな」写真が自動で生成されるわけである。誰もが簡単にキュレーションできてしまう作品の「素材」なのである。

はっきり言って、作品を事後に思い出すことを目的にするのであれば、図録を買えばそれで済むわけだが、キュレーションしたいときや自分が主役になりたいときには写真を撮るしかないのである。

ところで、インスタ映えする写真を美術館で撮る、というと、2年前に大炎上した読売新聞での#美術館女子 が思い出される。



#美術館女子については、なんでもかんでも〇〇女子ってつけるんじゃねーよというジェンダー論の話と、作品を背景に映える写真を撮ってるんじゃねーよというアート至上主義の話がごちゃまぜになって炎上していた記憶がある。が、後者の「作品を背景に映える写真を撮ってるんじゃねーよ」的な話は、既に美術館においてこれだけ映え写真が撮られまくっている現実の中、それに怒りを覚える勢力は勝手に駆逐されていそうな勢いである。

従来型のアートの鑑賞スタイルに慣れてしまった老害の身としては、美術館で「いけてる絵を見てる私はいけてる」を撮っている人に出くわすとぎょっとすることがないわけではない。しかしそれも一つの作品の楽しみ方なのだろう。

例えば、これまた現代アートに一家言ある人たち界隈からは近年まれにみるほどボロクソに言われていた「ユージーン・スタジオ 新しい海」(東京都現代美術館)では、ダミアン・ハースト 桜と同じように、映え写真を撮る来場者が続出した。

私も現地に赴き、「え?ここでそんな写真撮るの?」と心底びっくりしたこの展覧会だが、いろんな意味で新しいアートの楽しみ方が発見された場ともいえる。

例えば以下のようなツイートを見ると、まさに新しさを感じる。




これを新しいと評して肯定的に語るのは、決して皮肉では、ない。