映画「マイスモールランド」を見た。



日本に暮らすクルド難民の物語である。

言わずもがな、日本は難民にたいしてとても厳しい対応をする国である。映画の中でも、理不尽が過ぎる難民に対する日本の入管の対応やその制度が描かれる。
映画の主人公は、小さな頃に親に連れられて、いわば自分の意志とは関係なく日本にやってきただけの未成年だ。なのに、難民申請が認められず、働くことも県境すら超えることを許されない生活を送る。
働くことを許されないのって、どうやって暮らしていけば良いんだと、主人公も見ている私もどちらも途方に暮れるわけだけれど、これが日本の制度の現実である。そのまま描いているだけなのに、ひどいと感じる。ひどい。

あらためて、日本の難民に対する対応のおかしさを痛感する。
これがおもてなしの国日本なのかと、皮肉る言葉も映画の中に出てくる。

おもてなしの国日本に対する皮肉といえば、先月は「牛久」も見た。



これは牛久にある入管での撮影をもとにしたドキュメンタリー映画だ。
偶然にも、このドキュメンタリー映画でも「おもてなし」について言及されていて、フィクションと現実がリンクしている。

映画「牛久」は、その製作方法自体にいろいろ物議があり、問題にもなっている。だが、入管とそこに収容されている難民、仮放免中の難民の姿をカメラ越しに凝視してしまうことは確かだ。

入管のひどさについては、ときどき報道もされるけれど、普段は入管内の映像はまず出回らない。それが、映画を通して実際に入管内で、どのようなひどいやり取りがおこなわれているのかを見てしまうのは、衝撃的だった。安全な文明国の日本だと思っていたのに、同じ人間に対して、人権も何もない、こんな絶望的なことをしているのかと、自分の母国なのにそのやり方にドン引きした。

じつは私の知り合いの公務員に、入管職員として働いていた人がいる。(公務員なので数年ごとに転勤があり、現在は既に入管にはいない。)
入管でのハンガーストライキが報道されていた頃などは、その人にも「どうなってるの?」と強く言ってみたりしたけれど、ヤバイ入管の問題は、はっきり言って末端職員にはどうしようもないようで、職員個人が原因なのではなく、作られてしまった仕組みが原因だろう。


私も、数は少ないながら日本で難民申請をしている方々とお話したことがある。
その人たちは、拍子抜けするほど普通の人たちだった。見た目も普通、話すことも普通。難民と言われなければまず難民としてわからない。むしろ、難民だと自己紹介されたとしても、「またまたー」と言ってしまいそうなぐらい普通だった。

普通だからこそ、目立たない。
そして、ほとんど難民申請が認められないので、日常生活で遭遇すること自体がない。
日本人の難民に対する意識が極端に低いことは、そうやって「会わないから知らない」ということもあるだろう。

一方で、昨今は、ウクライナ問題によって日本での難民受入れの気運が高まっているとか高まっていないとかである。
ずっと難民支援をしてきたような人たちにとっては、なぜウクライナだけなのかと心中お察しするところだが、ここはひとつ、日本でも難民について理解を深めてもらうきっかけになると良いと思う。


映画「マイスモールランド」の中では、とある登場人物が、難民の知り合いに対して自分が何をできるかと考えるシーンがある。そのひとつに答えに「お金を渡す(寄付をする)」という手立てが思いつかれる。一方で登場人物は「こんなことしかできなくて……。」と言う。
果たして自分ができることはお金を出すことだけなのか、もっと何かできるのではないか……。これは自分でもよく考える悩みだ。他に良い案がなかなか見つからないからこそ、自分自身にシンクロするシーンだった。

でも例えば、今ならば、この映画「マイスモールランド」を見ることが、見てもらうことが、てっとりばやく日本の難民問題に世間の目を向ける良いチャンスである。
直接的な支援の方法だけが大事なのではない。例えば、外国人っぽい人に対して「どこの国から来たの?」と語りかけてしまう、本人は悪いと思ってないけど超ナチュラルに失礼なやり取りなどが、とても示唆的に描かれる。こういったことも、映画だからこそ伝わる問題提起だろう。